「予科練」とは、海軍予科練習生(昭和11年12月海軍飛行予科練習生へ改称)の略称です。
予科練の制度は、優れた航空機搭乗員は英才の早期教育が必要との観点から、高等小学校卒業者で15歳以上17歳未満の若者をその教育の対象としたもので、第1期生79名(うち1名は途中除隊)は、全国5,807名の志願者の中から厳選され、昭和5年6月に横須賀海軍航空隊(追浜基地)に入隊しました。
その後、追浜基地が手狭になったために、昭和14年3月には霞ヶ浦海軍航空隊(茨城)に移設され、翌年からは土浦海軍航空隊として独立し予科練教育のメッカとなりました。
また教育制度も逐次甲種、丙種、乙(特)が加えられ、昭和17年以降は採用年齢も14歳まで引き下げられました。
予科練の制度は、昭和20年6月に教育の凍結がなされるまでの、わずか15年間にすぎませんが、その間に約24万名が志願し、18,564名の卒業生が戦死され、そのうち1,557名は特攻隊の隊員として大海原にあるいは大空に散華されました。
左から乙飛18期の吉永光雄(鹿児島県出身)、川端三千秋(和歌山県出身)、薮田 博(大阪府出身)、黒野義一(兵庫県出身) 年齢18才~19才の4名です。
この写真は昭和20年4月25日鹿屋基地仮兵舎(小学校)前のもので、吉永、川端、藪田の3名は4月29日第5昭和隊、黒野は5月11日第6昭和隊として、零式戦闘機に250kg爆弾を装備、神風特別攻撃隊員として沖縄周辺の敵機動部隊に対して攻撃戦死。
出撃を前にして微笑する英姿に多くの説明は要しません。私達の胸の奥深く生き続けていくことでしょう。我々に想い出の色があるとしたら、それは雲の純白と空の紺碧しかない。
我々の悲しみを色に例えるなら南の海を真っ赤に染めた君たちの血潮の赤だけである。
(第18期乙種海軍飛行予科練習生生存同期生)