赤とんぼ掲示板

会員の皆様から投稿される記事や川柳・俳句・和歌・漫画などをご紹介しております。
様式は随意で結構ですのでどしどし事務局へお送りください。

南太平洋に桜散るー幻の叔父・山岸昌司を追って(最終章)

2017年02月22日 乙飛6期 故 山岸 昌司 様  姪 平林 峰子 様

平林様には平成27年8月に第1章をご投稿いただいてから、最終章まで1年半の長期にわたり連載をいただき大変ありがとうございました。また、機会がございましたらご投稿ください。


 

 

平成27年5月23日、この日は筑波海軍航空隊の慰霊祭の日です。

私は前日から、友部駅前のホテルに泊まり23日の朝妹と合流し永井博子さんの車に乗せて頂き慰霊祭会場に向かいました。この年は戦後70年目の節目のためか、地元の中学生の皆さんが大勢出席されており、例年とは異なる慰霊祭の光景でした。 (さらに…)

南太平洋に桜散るー幻の叔父・山岸昌司を追って(第4章)

2017年02月22日 乙飛6期 故 山岸昌司 様  姪 平林 峰子 様

平成26年8月Aさんから手紙が届きました。

手紙には、「本屋に立ち寄った時、大変なものを見付けてしまいました。」と、「もうひとつの『永遠の0』筑波海軍航空隊ー散華した特攻隊員たちの遺書」という本のコピーが同封されてありました。 (さらに…)

70年目の奇蹟~見えてきた兄の最期~

2016年09月25日 公益財団法人海原会 参与 行方 滋子 様

「遺族会の方から連絡をいただくまでの70年間、兄は敵の砲弾にやられて、海の藻屑と消えたと思い込んでいました。しかし、兄は最期の時まで立派に務めを果たしていたのですね・・・・」と静かに話すのは、故海軍少尉山岸啓祐命のご実弟、山岸修次さんです。

(この投稿は、海原会機関誌「豫科練」の平成28年7・8月号に掲載されたものです。)

(さらに…)

南太平洋に桜散るー幻の叔父・山岸昌司を追って(第3章)

2016年09月15日 乙飛第六期  故 山岸 昌司 様  姪  平林 峰子 様

平成26年8月Aさんから手紙が届きました。

手紙には、「本屋に立ち寄った時、大変なものを見つけてしまいました。」と、「もうひとつの『永遠の0』筑波海軍航空隊-散華した特攻隊員たちの遺書」という本のコピーが同封されてありました。

その手紙には当時筑波海軍航空隊の教員であった叔父が椅子に座り、後ろに4人の乙飛9期の練習生が立っている写真が掲載されていました。 (さらに…)

南太平洋に桜散るー幻の叔父・山岸昌司を追って(第2章)

2016年03月29日 乙飛第六期  故 山岸 昌司 様  姪  平林 峰子 様

 朝5時32分信濃大町始発の電車に乗り松本駅で特急に乗り継ぎ、品川駅で特急に乗り換えると茨城県友部駅に着くのは午前11時36分。

私が筑波海軍航空隊跡地を訪ねる時のいつもの道程である。

(さらに…)

戦艦ウエストバージニアの慰霊碑を真珠湾に建立したい

2016年02月24日 海原会会員 脇田 四郎 (甲飛13期)

本年1月14日、来日されたウエストバージニア大学教授の佐竹正治氏と東京ステーションホテルで海原会の菅野理事、平野事務局次長、脇田四郎が面談しました。その時伺ったお話を中心に佐竹教授と海原会の係わりなどについて紹介します。佐竹教授は、日本生まれで7歳の時父親と共にアラスカへ移住爾来、今日までアメリカと日本を行き来する生活で、今はウエストバージニア大学に勤務し陶芸を指導されております。 (さらに…)

空のはたてに

2015年09月28日 加茂 菖子  様

 

ただあるはほむらとなりてなさんかな

そのこころざし空のはたてに

 

 これは、親しいパイロットの方々によせた私の歌である。大空への憧憬と青春を賭けたかつての私達の気魄は、今も私の胸に燃えている。

幼い日から何故海だの空だのが好きだったのかよくわからないが、すべての生命を包み込むかに思える自然のたくましさと無限の叡智というものに、私は早くから魅せられて来た。

 

(この記事は、昭和43年10月24日発刊の、機関誌「豫科練」第5号に投稿されたものです。)

 

「海原会の会員である」という事だけで、父がずっと誇りにしていた「予科練」と、思い出だけでなく現在もつながる事ができまして、私自身大きな感謝と、安心感のようなものを感じております。

2015年09月14日 公益財団法人 海原会 平野 陽一郎 

表題の一文は、予科練出身のお父様に代わり海原会への入会手続きをされた、甲飛12期生(青森県在住)のご子息から私に届いたメールの内容です。

私はこれまで、同窓生にとって予科練は70年前の現実と思っていました。しかし、同窓生の皆さんにとって予科練は決して過去のできごとではなく、彼らの心の中にある現実でありそして「海原会の会員であること」でそれを実感し、予科練であったことを誇りに今を生きておられることに改めて気付かされました。

 我々海原会の目的は、一義的には戦没予科練生の慰霊と顕彰でありますが、生存予科練同窓生の戦後の生きざまにも多少なりとも寄与できているのではと、心温まる思いに浸る事が出来ました。

南太平洋に桜散るー幻の叔父・山岸昌司を追って

2015年08月28日 乙飛第六期  故 山岸 昌司 様  姪  平林 峰子 様

投稿者の平林峰子さん(長野県在住)は、地元で戦時中の兵事資料が多数発見され、それを基に「大本営最後の指令」(プロデユーサー 吉丸昌昭・監督 長尾栄治)というドキュメンタリー映画が製作されたのきっかけに、乙飛第六期生として入隊昭和十七年に散華された母方の叔父、故 山岸昌司さんの事を調べてみようと思いたって五年、今ここに七十三年の時を超えて海軍飛行兵曹長 山岸昌司 様が 甦ります。


 

 

昭和十七年十月二十六日、私の母の弟・山岸昌司は南太平洋海戦で、航空母艦「翔鶴」の搭乗員で、第一中隊二番搭乗員として出撃し、米軍の航空母艦「ホーネット」に体当たりし自爆、戦死しました。二十二才でした。

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一つしかない尊い生命を捧げた若者を 決して犬死させてはならん

2015年07月30日 甲飛6期 故 松井 博司  様   母 (長野県在住)

 去年の暮れから風邪を引いて寝ておりましたが、お陰様にてようやく快方に向かいました。

かねて世田谷にお住まいで、倅博司と同期の高橋重男様のお力添え、また大原直正様方々のご親切な御尽力で、この度勲章並びに、高松宮妃殿下の御歌と金のおさかずき等をちょうだい致し感激の余り感涙にむせびました。

自分の兄の戦友の人達に会えて、私はこの式典に参加してよかった

2015年07月29日 特乙1期 故 小林 登 様   弟 (東京都在住)

 この予科練の碑が建つということを、三月頃に電話で聞きましたが、最初は終戦から二十年もたっているのに、今までなにひとつ連絡がなかったので信じられなかったのですが、五月の中頃に、今度は手紙で除幕式の招待状が届きました。この時はじめて慰霊碑が建つということが現実と分かったのです。

(この文書は昭和42年4月発行の機関誌「豫科練」に掲載されたものです。)

初めて在りし日の父をはっきりと、感じとることができました。

2015年07月29日 乙飛4期 故 上野 六十男 様    次女(北海道在住)

 父が第一次ブーゲンビル島沖海戦とかに指揮官機の操縦員として散華した時、姉は一年十ケ月、私はまだ母の胎内にあった。昭和二十三年、母が他界した時、姉は六歳私は四歳であった。だから、私には母のことならいくらか記憶に残っているが、父の姿は思い出しようもなく、ただ残された写真や日記帳で面影を偲ぶだけであった。

(この文書は昭和42年4月発行の機関誌「豫科練」に掲載されたものです。)

二十七の日はおはなをもりまして しばらくおがみます。

2015年07月29日 甲飛8期 故 林田 重信 様   母 (福岡在住)

 御めん下さいませ。たいへんよいことをして下さいました。ありがとうございます。御礼申し上げます。

二十七の日は、おはなをもりましてしばらくおがみます。

すこしばかりおさいせんをおくります。

(この文書は昭和42年4月発行の機関誌「豫科練」に掲載されたものです。)

立派な立像(二人像)の英姿に 衿を正して拝見いたしました。

2015年07月29日 甲飛8期 故 吉岡 稔 様   母 (北海道在住)

 ここ北海道の地にも、いよいよ春が訪れ桜の蕾も日増しにふくらむ頃となりました。

このたびは、会報「豫科練」の創刊にあたり、わざわざご送付頂きありがたく拝見させていただきました。

思えば、昨年5月27日慰霊碑建立除幕式典を挙行され本年も亦慰霊祭を行わせらるる由、誠に有難く御厚礼申し上げる次第で御座います。

(この文書は昭和42年12月発行の機関誌「豫科練」に掲載されたものです。)

失われた心を慰めて下さる豫科練戦没者慰霊碑の建立は、誠に有意義なものと思います。

2015年07月29日 甲飛8期  故 増田 哲郎 様   弟 (甲飛12期 埼玉在住)

 敗戦の混乱の為、ちりじりばらばらとなった戦友の消息を知る由もなく今回初めて同期の方のお目に掛かった次第です。思い浮かべますと、当時の鴻毛の軽さとは言うものの、兄がどんな生活をし、又どんな死に方をしたのかを知ることは生き残った遺族の願いでもあります。

(この文書は昭和42年4月発行の機関誌「豫科練」の掲載されたものです。)

尊い一命を捧げた 本当の意味が忘れられているのではないか

2015年07月29日 乙飛16期  故 鶴田 光 様   母 (東京)

 早いもので、皆様方の真心の結晶が、霞ヶ浦湖畔に燦然たる光を放ってより、もう一年半を経過しました。

私は、息子が二十二年ぶりに戻って来たような喜びに浸りましたが、今回はまた記念館を建設いただきますとのこと、何と御礼申し上げてよいやら、只々感涙するのみで御座います。

(この文書は昭和42年十二月発行の機関誌「豫科練」第2号に掲載された記事です。)

「 再 会 」    サーッと流れ星になって消えてしまった彼・・・・

2015年07月04日   静岡県在住    長嶋 様  (女性)

紅葉の日光に、娘夫婦に誘われたのは、平成十四年十月二十六日の事でした。その折、兼々一度訪れてみたかった、元土浦海軍航空隊に車を走らせてもらいました。

(この記事は、甲飛第8期生として入隊された静岡県出身の故鈴木鼎様の入隊壮行会に出席された筆者が、一瞬だけ触れ合った面影に、戦後57年の時を経て偶然にも旅行先で「再会」をした時の事を、昭和十五年五月発行の機関紙「予科練」に投稿したものです。)

予科練の碑は、我々予科練出身者全員の墓標だ。私達が全員この世を去った時、予科練のことを語ってくれる者は誰か。

2015年07月01日 乙飛同窓         大沼 様  (京都在住)

慰霊碑の除幕式から一年有半過ぎ去った今日、戦後の二十三年を振りかえって見ると、世相の変転の激しさに考えさせられることが多々あります。敗戦後さんざんに批判された日々、次にはその戦記をテレビや映画で再現している現在を見るとき、戦争の批判は五年や十年ではなく五十年か百年位たってから冷静にすべきだと思います。

(この一文は、昭和四十二年十二月発行の、機関紙「予科練」第2号に掲載された記事です。)

故清は長男でしたので私にとっては、つらいつらい思い出の日夜の種でございます。

2015年07月01日 甲飛8期 故 海川 清  様    母(長野県在住)

私は故清の母でございます。昨年は出席させて頂き本当に嬉しく感謝にたえません。亡き清も心安らかに眠れることと存じます。本当によいことをしてくださいました。厚く厚く御礼申し上げます。

(この一文は、昭和四十二年十二月発行の機関紙「予科練」2号に掲載された記事です。)

あの島のどこかに埋もれているかと思いますと、無性に行ってみたくぞんじます。

2015年07月01日 乙飛16期  故 大木 登史 様     母(横浜在住)

先日はわざわざお電話くださいましてありがとうございました。私も寄る年波で皆様の足手まといと存じますので残念ながらお伴できませんが、心の内では是非とも参りたく存じました。

(この一文は、昭和四十二年十二月発行機関紙「予科練」第2号に掲載された記事です。)

飛行服姿の武昌の写真を、遠い土浦の方に向けて黙祷を捧げました

2015年07月01日   甲飛9期  故 平山 武昌  様  父 (鹿児島県在住)

〝朝じめり露けき園に咲く萩へ結ぶ白玉涼しくも見ゆ〟自詠

先日は予科練戦没者慰霊碑建立委員会から、まことに結構な記念品と予科練之碑除幕・慰霊式典報告書をご送付くださいまして、本当に有難うございました。衷心から感謝感激の涙をもって頂きました。

(この一文は、昭和四十二年四月発行の機関紙「予科練」第1号に掲載された記事です。)

「病床回顧」 この英霊の顕彰、供養とはなんと偉大な事業ではなかろうか

2015年07月01日                               故    長峯 良斉  様

〝胸部腫瘍手術〟それは肺ガン手術といえばピンとくるかも知れません。詳しくは、胸部腫瘍の中で悪性と良性とに分けられ、それによってガンとそうでない良性の腫瘍とに区分されている訳です。私は思いもよらなかったこの病魔に襲われ、慶応病院で一昨年の夏手術を受けました。

(この一文は、昭和四十二年四月発行の機関紙「予科練」第1号に掲載された記事です。)

「二十数年来、一日もこの胸から離れることのない二郎のこと」

2015年06月30日 乙飛9期  故 兼藤 二郎 様  母 (広島在住)

暑中お見舞い申し上げます。大変暑い日が続きますが皆様方にはご健勝にてお過ごしのことと存じます。突然不躾の便りを差し上げます。私は兼藤二郎の母でございます。

(この一文は、昭和四十二年十二月発行の海原会機関紙「予科練」の第2号に掲載された記事です。)

「全国各地のご遺族に代わって・・・」

2015年06月30日 乙飛18期 故 引地恒恩 様   妹様(茨城在住)  

全国各地のご遺族に代わって、いつも身近にいてその霊を慰めてあげることが、せめてもの務めです。

(この一文は、昭和四十二年四月発行の機関紙「予科練」第1号に掲載をされた記事です。)

「慰霊碑に想う」 英霊たちが二つとなき己の生命に代えて願ったもの、それは戦いそのものではなく、戦いを越えた彼方に輝く平和の灯であった。

2015年06月30日 海軍教授      故 倉町 秋次     様

この一文は、昭和42年4月創刊の海原会機関紙「予科練」の第1号に掲載されたものです。真の慰霊・真の顕彰とは何なのかを倉町教授自らが、生存予科練同窓生に対して教え諭したものです。

「我々は、もはや地位も名誉もまして財産も必要としない。慰霊祭も現在のような大規模なものでなくていい。これまで生かされてきたことで十分満足している。OB会の皆さんが引き継いでくれるなら、全く異論はない。」そう言って笑顔を見せていた桜井会長、「貴方がいてくれたから」

2015年03月18日 公益財団法人海原会 理事 平野 陽一郎

初めての出会いは、私が、武器学校の総務部長に着任した平成十五年八月の事でした。
財団法人海原会の会長桜井房一氏(甲飛十二期生)は挨拶もそこそこに、「海原会役員の高齢化に伴い、将来、同会の運営を(旧土浦海軍航空隊の)地元阿見町にお願いすることになりました」と、嬉しそうに語っていました。

「七十二年目の抱擁」 二十四歳の若さでソロモン群島に散った兄、今七十二年振りにその妻と愛娘をその両手に抱き締めてもらいたくて。

2015年02月01日 乙種飛行予科練習生第六期 故 海軍上飛行曹長 中西義男 実弟  中西 明様

兄は、昭和十年、二歳の私に長男役を託して飛行予科練習生を志願した。当時は、家に後継者が居なければ受験できなかったという。 
この記事は、中西明さまが靖国神社に奉納したものです。

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